early in the rainy day

ほんの備忘録として。自分のために書いてみます。

街のあかり

『街のあかり』

カウリスマキの灯すあかりは、決して現代のLEDのように、無機質で一定のあかりではない。マッチのあかりのように、弱々しく光は増減し、私たちを暖めるほどでもない。それでも、強すぎる光のように目が眩んでしまうことはなく、私たちはその光をしっかと見つめることが出来るのである。そして、お望みなら、タバコに火を点けるくらいは出来るだろう。

私にとってのカウリスマキ3作目は、相も変わらずうだつの上がらない中年男が主人公。不恰好で、馬鹿で、周囲に溶け込めず、だけども清々しいほどまっすぐに生きている主人公には、いつの間にか好意を抱いてしまう。

冒頭のシーン、
「どうやって知り合う?」
「普通は男が映画に誘うものよ」
という掛け合いにしびれた。カウリスマキの映画はおそらくそういった華やかさとは無縁の、あるいは対極に位置するはずである。しかし、彼は堂々とそれを言わせてしまうのだから大したものである。

3作観てきて感じたのは、彼の境界線の引き方の巧さである。孤独な主人公を描いているはずなのに、鬱屈とした感じが全くない。むしろ、世界がどこまでも広がっていくような感覚さえ持ってしまうのである。私たちは普段、自分の関わる世界はここまでだろう、と勝手に境界線を引いてしまっているのだろう。だから、いざそれを飛び越えようとすれば、途方もない労力が必要になる。しかし、それは私たち自身が勝手に引いたものでしかないのだ。それを自覚したとき、境界線を挟んで存在していたふたつの世界のあわいは限りなく小さくなる。この映画だったらば、ミルヤは登場しない留置場や裁判所のシーンですら存在を感じさせていたのに、レストランでの再開のシーンで、2人の距離はもはや手の届かないほどに離れてしまった。自由自在に境界線を引き直しながら物語を紡ぐカウリスマキは、もはや神様のそれのようである。

それにしても、不甲斐ない男の姿を観てどうしても自分の姿を重ねてしまうのは何故なのだろうか。本当は格好良く生きている男なんていなくて、みんな不甲斐なさを必死に隠そうともがいているだけなのかも知れない。