early in the rainy day

ほんの備忘録として。自分のために書いてみます。

夏をゆく人々

『夏をゆく人々』@岩波ホール

アリーチェ・ロルヴァケル/2014/イタリア

 

2014年カンヌグランプリ作品。まるで印象派の絵画のような、繊細なタッチと正確な構図が印象に残る映画だった。とりわけ、表情の描写が素晴らしい。左斜め後方からのショットが多用されるのであるが、このショットが少女の葛藤を実に見事に捕らえているように感じた。

 

ストーリーは、暗闇を縫って歩く猟師のシーンから始まる。彼らがとある家の存在を示唆すると、次のシーンではその家と思われる屋内に場所が移される。そして家主は、発泡する猟師に対する怒りをあらわにする。当初はあたかもこの二つの出来事が同一の時間軸で起きているように描かれている。ここからその家を舞台にストーリーが展開されていく。

しかし、最後まで作品をみると、実はこれまで目にしてきたものは夢だったのでは無いかと思うようになる。最後のシーン、何故か家の前の草原に戯れる家族をとらえたカメラは、一度彼らを離れ、再びその場所をとらえたときには既に彼らはその場所からいなくなっている。そして、あれほど喧噪に満ちていた家の中には、もはやひとかけらの存在も失われてしまっている。ここに来て、はじめて最初のシーンが想起される。果たして猟師が目にしたのはあの喧噪に満ちた家なのか、あるいはひとり草原に佇む無人の家なのか。わたしたちの残されるのは、一夏を少女と過ごした淡い思い出のみである。

 

この映画を観て、思い出した言葉がある。

「この監督は、不在を映すことが出来るひとだ」

とあるテレビ番組で、学生の映画を岩井俊二氏が評して言った言葉である。

この評価は、ロルヴァケル監督にこそふさわしい言葉なのでは無いか。劇中において、その画面に収まっていない人物がみずみずしいほどの存在感を出しているシーンがいくつもある。とりわけ、蜂蜜をこぼしたシーンの父の存在と、ジェルソミーナが島に向かうシーンの少年の存在である。彼女の不在へのまなざしは、自然や愛、そして古代の文明へと向けられていく。そのどれもが欠如している。しかしその不在の中に、確かにそれらの存在が顔をのぞかせるのである。