early in the rainy day

ほんの備忘録として。自分のために書いてみます。

東京虹子、7つの後悔

『東京虹子、7つの後悔』@三鷹市芸術文化センター 星のホール

キ上の空論/作・演出:中島庸介

 

今朝偶然テーブルに無造作に積んであったDMの中から見つけ、足を運んでみた。星のホールはままごとの『わが星』以来二度目。『わが星』ではステージを囲むように円形に客席が配置されていたが、今回は中央のステージの両側に観客席が配置されていた。

 

舞台が始まる前、お決まりのアナウンスに続き、唐突に舞台袖から女性が現れた。照明も音楽も変化しない。そして彼女はおもむろに言葉を発しはじめた。この演出は演劇では良くあることなのかもしれない。しかしこの一瞬だけ、見知らぬ人が突如として自分の前に立ち、自分語りをはじめるような、そんな居心地の悪さを覚えた。舞台に立っている女性が、生身の人間にしか見えなかったからでもある。

 

しかし、音楽でいう前奏が終わり、メロディーが始まると、そんな感情は払拭された。物語は吃音に悩む少女が、自分の感情をうまく言葉に出来ずに、周囲とすれ違う様子を描いていく。床にはいくつかの文字が描かれ、時折ピアノの単音が流れる。これらを手がかりにしながら、目に見えない少女の世界が可視化されていく。例えば、雨が降るシーンでは登場人物が”雨”と書かれた場所に立ち、”ソ””ラ”の音が流れると空、”シ”の音が流れると死を連想させる、といった具合である。

 

また、この戯曲では言葉遊びや韻など、言語を巧みに用いた演出が光る。これらはユニゾンやタイ、スラーといった音楽的記号に重なる。これらの技法により、脈絡の無いシーン同士をつなぎ合わせ、場所や時間を飛び越えながらストーリーが展開されていくのである。そして終盤、劇中に発された台詞が雨のように降り注ぐ。そして最後には、きれいな虹が物語を締めくくる。

 

この劇を観て、否応なしに『わが星』を思い出した。あの劇も、同様に言語の音階や音韻を巧みに用いた演出がなされていたからである。しかし、大きく違うのは、『わが星』でははじめからその技法に合わせて台詞が当てはめられているのに対して、この劇ではふとした瞬間に現れるリズムが言葉に響き、メロディを形作っていくところだろう。

 

いくつか疑問に思ったところもある。まずは椅子の数。作中、明らかに登場人物の人数よりも多い椅子が舞台に用意されていた。何かの意図があったのだろうか。次に、フォルテで入り、徐々にディミネンドしていくような台詞読みやストーリー立ても気になった。

 

それから、ドレミファソラシドは確かに特定の音を表すものとして広く受け入れられているものではあるが、それはあくまで恣意的に名付けられたものでしかない。ピアノで発される音を何の疑いも無く、われわれが日常使う言語に結びつけていいのだろうか。あるいは、あくまで日常発される音にこだわるのであれば、問題ないのか。この点も無視できない気がする。

 

今日は雨が降っていた。帰り道、雨が地面にはねる音、車が水を切る音、そんな音が作り出すリズムにも、少しだけ耳を傾けてみようと思った。