early in the rainy day

ほんの備忘録として。自分のために書いてみます。

過去のない男

過去のない男

カウリスマキ二作目。2002年カンヌグランプリ作品。やっぱり、主人公がどこかで救われてしまう、そんなストーリーで映画を撮るカウリスマキの優しさが好きだ。

フィックスショットで軽く一分持たせてしまうところ。無表情なのに、何も語らないのに、あまりに豊かなコミュニケーションが成り立っているところ。犬の名前がハンニバルでゴリ押しするところ。始めの方に何気なく放った言葉が、最後の最後で回収されてしまうところ。タバコの火を付けるだけで、2人が心を通わせるところ。別れた2人が、綺麗に逆方向に歩き始めるところ。そして何より、エンディングで幸せな気分にさせてくれるところ。そのどれもが素晴らしい。

それにしても、映画でタバコを吸っているシーンになると、タバコを吸いたくなるのは不思議だ。

ル・アーヴルの靴みがき

『ル・アーヴルの靴みがき』
アキ・カウリスマキ/2011/フィンランド・フランス

初めてのカウリスマキ。主人公に全部は与えず、全部は奪わないさじ加減が絶妙。でも、最後はちょっと贅沢すぎるかな。

配色だったり、カットの割り方だったりはトラディショナルな感じ。2011年に作られたとは言え80年代くらいの印象もうける。小津映画に影響を受けてるらしいから、小津映画観たらまた感想が変わるのだろうか。

夏をゆく人々

『夏をゆく人々』@岩波ホール

アリーチェ・ロルヴァケル/2014/イタリア

 

2014年カンヌグランプリ作品。まるで印象派の絵画のような、繊細なタッチと正確な構図が印象に残る映画だった。とりわけ、表情の描写が素晴らしい。左斜め後方からのショットが多用されるのであるが、このショットが少女の葛藤を実に見事に捕らえているように感じた。

 

ストーリーは、暗闇を縫って歩く猟師のシーンから始まる。彼らがとある家の存在を示唆すると、次のシーンではその家と思われる屋内に場所が移される。そして家主は、発泡する猟師に対する怒りをあらわにする。当初はあたかもこの二つの出来事が同一の時間軸で起きているように描かれている。ここからその家を舞台にストーリーが展開されていく。

しかし、最後まで作品をみると、実はこれまで目にしてきたものは夢だったのでは無いかと思うようになる。最後のシーン、何故か家の前の草原に戯れる家族をとらえたカメラは、一度彼らを離れ、再びその場所をとらえたときには既に彼らはその場所からいなくなっている。そして、あれほど喧噪に満ちていた家の中には、もはやひとかけらの存在も失われてしまっている。ここに来て、はじめて最初のシーンが想起される。果たして猟師が目にしたのはあの喧噪に満ちた家なのか、あるいはひとり草原に佇む無人の家なのか。わたしたちの残されるのは、一夏を少女と過ごした淡い思い出のみである。

 

この映画を観て、思い出した言葉がある。

「この監督は、不在を映すことが出来るひとだ」

とあるテレビ番組で、学生の映画を岩井俊二氏が評して言った言葉である。

この評価は、ロルヴァケル監督にこそふさわしい言葉なのでは無いか。劇中において、その画面に収まっていない人物がみずみずしいほどの存在感を出しているシーンがいくつもある。とりわけ、蜂蜜をこぼしたシーンの父の存在と、ジェルソミーナが島に向かうシーンの少年の存在である。彼女の不在へのまなざしは、自然や愛、そして古代の文明へと向けられていく。そのどれもが欠如している。しかしその不在の中に、確かにそれらの存在が顔をのぞかせるのである。

さよなら、人類

『さよなら、人類』@YEBISU GARDEN CINEMA 

ヴェネツィア金獅子賞を獲得したという触れ込み以外、全く情報もなく鑑賞。結果、わからない。起承転結(そもそも、そういうものがあるのかすらわからない)すら見えず、ただただ場面の移り変わりを追うので精一杯といった始末。

監督はスウェーデンロイ・アンダーソン。ベルリンやカンヌで受賞歴がある実力派らしい。鑑賞後知ったことだが、彼は自前のスタジオで、ほとんどをマットやミニチュアによってこの作品を完成させたという。なるほど、次第に作品の見方が変わってくる。

観て知り得た限りでの彼の特徴は、まず1シーン1カットであることである。当然、シーンのすべての出来事を画面に収める必要があり、緻密な構図が要求される。さらに、同じフレーズが繰り返し発される。日本語では理解しえないのだが、これが韻を踏んでいる。きっと几帳面な監督に違いない。

これも鑑賞後知ったのだが、彼の構図はブリューゲルの絵画をモチーフにしているらしい。ブリューゲルからの呼びかけに対する、彼らしい気の利いた返事といったところなのだろうか。

最も不思議だったのは、最初に奇妙だとしか思わなかった登場人物たちの動きが、次第に”当然”のものに思えてくることだ。そして、いつの間にか彼の世界に入り込んでしまう。入り込んだことに気付いた頃には、もう逃げ出すことは出来ないのだ。恐らく、登場人物たちの行動を理解しようとすることなどは無駄な試みなのだ。人間の行動に理由があるのか?きっと、ない。理由なんてものを求めるのも、ひとり人間だけなのだろう。