early in the rainy day

ほんの備忘録として。自分のために書いてみます。

YIDFF2015 10/9

「叫び」

「六月の取引」

「プロパガンダ」

「銀の水ーシリア セルフ・ポートレイト」
この映画を観ただけでもこの映画祭に来た価値があると思える良作。洪水のように襲ってくる残虐なイメージは、しかしどこか既視感を伴って追体験される。よく見れば我々の日常に潜む狂気ーいじめ、DV、村社会ターミナルケア、枚挙に暇はないーそのものではないか。とある授業で、地球上で最も命が蔑まれているアフリカやアジアの姿は、私達の鏡なのであるという言葉を聞いて以来、それが奥歯に挟まったように頭の中でこだましていた。その意味が少しだけ分かった気がする。

さて、この映画は映画的手法においても秀逸である。今やインターネット上に氾濫している無数のイメージ。監督はこれらのイメージを見事に内面化し、新しいストーリーを与えることに成功している。繰り返されるイメージの羅列は、しかし確かなメッセージを伴って私達に語りかけてくる。彼はこの映画を映画史の繰り返しであると評している。映画的手法、技法よりも重要なのは、現実を“うつす“営みへの自覚である。カメラの裏側には無数の無人称の人間の視線がある。そしてその視線の先には、また無人称へと滑り落ちつつある人間の現実がある。しかしこうしたイメージは、これらの人間が無人称たることを許容しない。スクリーンに生起する新たなストーリーへと彼らを“うつし“、歴史の中へと焼き付けていく。こうした営為こそ、映画という(そしてお望みならばカメラやインターネットといった)技術の賜物であり、遺産である。

個人的には早くも今映画祭最高の作品であると評したい。

東京虹子、7つの後悔

『東京虹子、7つの後悔』@三鷹市芸術文化センター 星のホール

キ上の空論/作・演出:中島庸介

 

今朝偶然テーブルに無造作に積んであったDMの中から見つけ、足を運んでみた。星のホールはままごとの『わが星』以来二度目。『わが星』ではステージを囲むように円形に客席が配置されていたが、今回は中央のステージの両側に観客席が配置されていた。

 

舞台が始まる前、お決まりのアナウンスに続き、唐突に舞台袖から女性が現れた。照明も音楽も変化しない。そして彼女はおもむろに言葉を発しはじめた。この演出は演劇では良くあることなのかもしれない。しかしこの一瞬だけ、見知らぬ人が突如として自分の前に立ち、自分語りをはじめるような、そんな居心地の悪さを覚えた。舞台に立っている女性が、生身の人間にしか見えなかったからでもある。

 

しかし、音楽でいう前奏が終わり、メロディーが始まると、そんな感情は払拭された。物語は吃音に悩む少女が、自分の感情をうまく言葉に出来ずに、周囲とすれ違う様子を描いていく。床にはいくつかの文字が描かれ、時折ピアノの単音が流れる。これらを手がかりにしながら、目に見えない少女の世界が可視化されていく。例えば、雨が降るシーンでは登場人物が”雨”と書かれた場所に立ち、”ソ””ラ”の音が流れると空、”シ”の音が流れると死を連想させる、といった具合である。

 

また、この戯曲では言葉遊びや韻など、言語を巧みに用いた演出が光る。これらはユニゾンやタイ、スラーといった音楽的記号に重なる。これらの技法により、脈絡の無いシーン同士をつなぎ合わせ、場所や時間を飛び越えながらストーリーが展開されていくのである。そして終盤、劇中に発された台詞が雨のように降り注ぐ。そして最後には、きれいな虹が物語を締めくくる。

 

この劇を観て、否応なしに『わが星』を思い出した。あの劇も、同様に言語の音階や音韻を巧みに用いた演出がなされていたからである。しかし、大きく違うのは、『わが星』でははじめからその技法に合わせて台詞が当てはめられているのに対して、この劇ではふとした瞬間に現れるリズムが言葉に響き、メロディを形作っていくところだろう。

 

いくつか疑問に思ったところもある。まずは椅子の数。作中、明らかに登場人物の人数よりも多い椅子が舞台に用意されていた。何かの意図があったのだろうか。次に、フォルテで入り、徐々にディミネンドしていくような台詞読みやストーリー立ても気になった。

 

それから、ドレミファソラシドは確かに特定の音を表すものとして広く受け入れられているものではあるが、それはあくまで恣意的に名付けられたものでしかない。ピアノで発される音を何の疑いも無く、われわれが日常使う言語に結びつけていいのだろうか。あるいは、あくまで日常発される音にこだわるのであれば、問題ないのか。この点も無視できない気がする。

 

今日は雨が降っていた。帰り道、雨が地面にはねる音、車が水を切る音、そんな音が作り出すリズムにも、少しだけ耳を傾けてみようと思った。

コールド・フィーバー

『コールド・フィーバー』
フリドリック・トール・フリドリクソン/1995/アイスランド

大好きな監督。『春にして君を想う』以来二作目の鑑賞。彼はアイスランドに映画制作を根付かせたパイオニアだそうだ。『春にして君を想う』(原題は“Children of Nature“。最も美しい日本語の翻訳のひとつだと思う)はその名の通り春のアイスランドである一方、この作品は冬のアイスランドを舞台にしている。その印象に違わず、ほぼ全編においてスクリーンは真っ白に染まる。この配色がまた美しい。

彼の作品の特徴は、死の影が作品に色濃く表れているところだ。しかし、その死は通常想起されるような、生の断絶としての、あるいは終着点としてのそれではない。生は死を含み、死は生を含む。生は死を経て、また生へと還っていく。そんな死生観における死である。だから、ストーリーが陰鬱としているとか、悲しいものでは決してない。むしろ、今生きていることに根ざした、強さを感じさせてくれる。

また、やはりこの作品でも神秘的な出来事が主人公を目的地へと誘うのである。しかし、これは決して映画だから起きるような類のものではないように思える。振り返ってみれば、私たちが今ここにいるのは、もしかしたら妖精の仕業なのかも知れないとすら思えてくる。しかし、彼の作品に登場する人物達はただ施しを待っていたわけではない。自ら、目的地に向かって歩を進める最中に妖精に出逢ってしまったのだ。言い換えれば、自分で望むことだけが必要条件なのである。

主役を務めたのは永瀬正敏。はっきり言って、白眉ものの演技である。他の大多数の日本人に違わず、彼は沈黙がよく似合う。彼の黙ってタバコをふかす姿に憧れを抱いた。

東京物語

東京物語』 
小津安二郎/1953/日本

初めての小津映画。嫁姑の関係とか、年寄りが疎まれるところとか、今と変わらないなあと思ったり、女性の立ち位置とか、“余所様”との距離感とか、変わったなあと思ったり。そうやって観ることが出来るだけでも、価値がある映画なんだと思う。この時代にこれだけ日本人の精神性を具現し得た小津安二郎というひとが居たことに感謝しなければならない。

いくつか考えたこと。
尾道から出て来たはずの両親が、山の手弁風の言葉を話していること。“東京“がアイコンであるばかりでなく、この物語を成立せしめる前提条件として強く滲み出ている。
・東京と広島で起きていることが同時に観られるという経験自体、この時代には稀有なものだったのかも知れない。今となっては感じることすら出来ない映画らしさ。
・『だれも知らない建築のはなし』で、日本人が無口であることで神秘的になっている旨の発言があった。もちろんこれは皮肉だろうが、本音と建て前を分ける日本人の美徳は捨てたものではないかもしれない。

これだけのカット数を撮ることがどれだけ大変だったのかを考えると、同時の苦労が偲ばれる。“小津カット“と言われる独特なカット割も、様々な都合でやむを得ずそうなったものも少なくないのではなかろうか。

街のあかり

『街のあかり』

カウリスマキの灯すあかりは、決して現代のLEDのように、無機質で一定のあかりではない。マッチのあかりのように、弱々しく光は増減し、私たちを暖めるほどでもない。それでも、強すぎる光のように目が眩んでしまうことはなく、私たちはその光をしっかと見つめることが出来るのである。そして、お望みなら、タバコに火を点けるくらいは出来るだろう。

私にとってのカウリスマキ3作目は、相も変わらずうだつの上がらない中年男が主人公。不恰好で、馬鹿で、周囲に溶け込めず、だけども清々しいほどまっすぐに生きている主人公には、いつの間にか好意を抱いてしまう。

冒頭のシーン、
「どうやって知り合う?」
「普通は男が映画に誘うものよ」
という掛け合いにしびれた。カウリスマキの映画はおそらくそういった華やかさとは無縁の、あるいは対極に位置するはずである。しかし、彼は堂々とそれを言わせてしまうのだから大したものである。

3作観てきて感じたのは、彼の境界線の引き方の巧さである。孤独な主人公を描いているはずなのに、鬱屈とした感じが全くない。むしろ、世界がどこまでも広がっていくような感覚さえ持ってしまうのである。私たちは普段、自分の関わる世界はここまでだろう、と勝手に境界線を引いてしまっているのだろう。だから、いざそれを飛び越えようとすれば、途方もない労力が必要になる。しかし、それは私たち自身が勝手に引いたものでしかないのだ。それを自覚したとき、境界線を挟んで存在していたふたつの世界のあわいは限りなく小さくなる。この映画だったらば、ミルヤは登場しない留置場や裁判所のシーンですら存在を感じさせていたのに、レストランでの再開のシーンで、2人の距離はもはや手の届かないほどに離れてしまった。自由自在に境界線を引き直しながら物語を紡ぐカウリスマキは、もはや神様のそれのようである。

それにしても、不甲斐ない男の姿を観てどうしても自分の姿を重ねてしまうのは何故なのだろうか。本当は格好良く生きている男なんていなくて、みんな不甲斐なさを必死に隠そうともがいているだけなのかも知れない。

2015年8月 まとめ

8月の鑑賞メーター
観たビデオの数:18本
観た鑑賞時間:1819分

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鑑賞日:08月30日 監督:ルイス・ブニュエル
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鑑賞日:08月30日 監督:アキ・カウリスマキ
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鑑賞日:08月28日 監督:アキ・カウリスマキ
夏をゆく人々夏をゆく人々
鑑賞日:08月26日 監督:アリーチェ・ロルヴァケル
さよなら、人類さよなら、人類
鑑賞日:08月22日 監督:ロイ・アンダーソン
フリーダ・カーロの遺品 石内都、織るようにフリーダ・カーロの遺品 石内都、織るように
鑑賞日:08月21日 監督:小谷忠典
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鑑賞日:08月21日 監督:ロバート・ゼメキス
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鑑賞日:08月21日 監督:スティーヴン・ダルドリー
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鑑賞日:08月21日 監督:ビンチェンゾ・ナタリ
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鑑賞日:08月21日 監督:イーライ・ロス
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サスペンスとしても第一級ながら、ちゃんとコルシカやアラブと言った社会の微妙なパワーバランスが織り込んであるのがすごい。逆に、このあたりがわからないと冗長なフィルムノワールで終わるかも知れない。観客を選ぶ映画。
鑑賞日:08月18日 監督:ジャック・オディアール
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鑑賞日:08月16日 監督:ヤヌス・メッツ
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鑑賞日:08月13日 監督:リナ・プライオプライト
ウィークエンド・チャンピオン〜モンテカルロ1971ウィークエンド・チャンピオン〜モンテカルロ1971
鑑賞日:08月13日 監督:フランク・サイモン
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鑑賞日:08月12日 監督:ジェームズ・マーシュ
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鑑賞日:08月12日 監督:中村義洋
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鑑賞日:08月02日 監督:ジェームズ・ワン
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鑑賞日:08月01日 監督:麻生学

鑑賞メーター